駒林 修profile
会場/ギャラリー檜
会期/1996年3月11日(月)-3月23日(土)

午前11時30分一午後7時


 透層による“画面の問題”

 

平井亮一

 いま駒林修がかかわる“画面”は、油彩で白を介入させながら彩度の高い純色、それも対比色を幅広の刷毛で何度も重ねてゆくことによってもたらされるものである。そうした油彩の重なりは層をなしつつ、ところどころで対比色をきわだたせ、ときに混じりあって中間色を呈している。刷毛はほぼ縦と横にのび、それをさえぎるように刷毛が残すえのぐのたまりのような箇所が、平坦な筆跡を節づけてこれと定めがたい抑揚をあたえている。どうやらかれは、基本的には筆とえのぐとの関連が重層しであらわれる色とかたちの相乗をなにごとかであらしめようとしているようである。

歩く速さで 95.96−1 oil on canvas
227x182B

  こまかい手順はともかく、地塗りにたとえば赤か緑を筆や刷毛で塗る、それが乾いてからべつの色たとえば青を重ねるとしよう。すると乾いたえのぐ層の表面をおおうえのぐの状態は結果として透層法によるものとなり、対比色間の相互浸透があからさま映るのは当然となる。そのようにしながらかれはいくつかの色相をもちい重ね、ある頃あいになるとそこに自えのぐを刷毛で掃く。乾いてからさらに他の色相(青系が主調)をほぼ縦と横に筆ではしらせる、といったぐあいである。このとき、つやのでる溶き油をもちいれぱ透層はよりあざやかに映り、対比もさらにくっきりすることになろう。そのかわり溶き油のすべりのよさは色料間の乗りをそこねるため、油彩の質感が軽減し流体化して、さきにふ机た色のたまりを形成することにもなるのである。
  前まえからかれの色相選択で変わらないのは、補色もふくめた対比色の多用であり、これはいまもおなじのようだ。それも彩度の高い純色のため総体に色彩の映発効果は強いものとなる。ところが、かれは対比色の重層に白を重ねるなどしていわば空白の“幕間”をさしはさむため、それが色相ではなく質料としての知覚上の段差をところどころに生むことになっている。これがそこに異質な要素をあえて介入させ、色相や筆跡の相乗を異化するようにところどころ色彩ではない物質としての間隙を作り、ややもすれば単調に流れる色面の上滑りをおしとどめたりもする。


 画面そのものの知覚現実への着目は、原理からするなら一般にダダ的還元(ダダイズムではない)ときぴすを接している。そして、かりそめにでも表出営為のありようを疎外し間いかえすなら、この還元は誰でもくりかえしゆきあたることである。そしていかなるダダ的還元も、つぎにゆきつくところは、ひっきょう画面という知覚の現実とのことさらなるかかわりをうけいれることをおいて絵画はありえず、絵画は当のかかわりをあえてうけいれるときにはじまることの明確な自覚であるだろう。
  そこに一種のニヒリズムがすでに影をさしているのは当然だが、いまはふれない。実際にはそうしたかかわりをとおしておこなわれることになる統合(反統合)の実践その形式が、さしあたりは画面のありようをそれじたいにおいてそれぞれが問うという方途、画面がその同義反復としてそこにあるいいかえるなら画面の自己指示をとるのは、事例からしても十分にありうることである。
  しかしこれをただちに絵画の自己言及ととるのは、“画面とのかかわり”をもっぱら“画面の問題”としてとらえることによってである。げんにわが国では70年代から台頭した平面問題、ひいては凸凹支持体をめぐる 立面論議がしばらくかまぴすしかった。

 画面とのかかわりは、かならずしも画面の問題にかぎられるわけではない。まずおさえておきたいのは、画面という有象無象の知覚現実がそのままでなにかをあらわしているのではなく、ことがらはすべてその知覚の現実とのかかわり、もっとふみこむなら、当のかかわりにからむさまざまな条件、要素の統合(反統合という統合もふくめ)その実践として一元化されるだろうということだ。そのかぎりで、かかわりなどという虚性にたつ統合において絵画がなりたっても画面になにかが実体となってあらわれるわけではない。そこではたとえばしかじかの制度が大きな要因になるとともに、いっぽうでそれを相対化する不確定さがつねにつきまとっている。
  このようにして知覚、手法、認識のからむ統合の実践において絵画が生まれ「差異化」されるなら、“画面とのかかわり”は“画面の問題”にとどまらず、おそらく思いもよらぬことがらとのかかわりでもありうるだろう。 そうした生活現実に開かれた因子を私は“画面の外部”といっている。画面とのかかわりを画面の問題にかぎるのは、この外部をあえて断ちきり画面を 意志的に疎外し、画面の同義反復の実践形式に明確な構造をあたえることによってのみ可能となろう。これはなにもミニマル・アート にかぎられたわけではない。  
 ところで、画面の自己指示の実践はダダ的還元のあとにくる、あるいはそれから派生する最小限の絵画再認識として原理上はそれと対極の統合実践であるだろう。これがフォーマルなものの検討へと回帰するのはかかって媒体形式の存在という究極のそしてフィジカ ルな条件によっている。そのかぎりで画面の問題もしくは画面内部の問題を絵画とする自己指示の実践は、ダダ的な還元ともどもくりかえしあらわれるにちがいないのである。               

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 さきにふれたように駒林の画面とのかかわりは、えのぐの重層を 形成する刷毛と筆のストローク、対比効果をともなう色彩の相互干 渉などがあやなす様態におかれている。それも刷毛や筆で塗る手の 自然の動きに基軸をすえたうえで。この場合、そうした過程にいろ いろなかたちで作用し、かれの実践を媒介しときには疎外するよう ななんらかのメタ・レヴェルをあえて排除するなら、かれの実践もやはり画面の様態の同義反復としての画面問題に終始するほかない。
  こんどの作品は以前に発表したものとちがって、重層状態がむしろ派手やかであることはすでにみたところである。にもかかわらず 総体にある種のくぐもりをおぴていたのはどうしてだろうか。色彩のせいでないとすればこれはもっと深く画面とのかかわりそのものに起因しているのかもしれない。その後の進みぐあいにもよるけれど、そう私にみえたのは、手の動きと油彩の重なりとのあいだで、それも大きな画面を相手にこれまで以上のさまざまな、ということは若干あい矛盾するような因子をかれがうけいれ、そのことをすみ ずみまでゆきわたらせようとのかれのあたらしい配慮が、どこかではたらいていたためではなかろうか。とすれば、かれはこうしてべ つの局面をむかえつつあるといわなければならない。くぐもりはそうした局面にさしかかったゆえの逡巡と屈折に由来するのかもしれ ない。  

歩く速さで 95.96−3 oil on canvas
227x183B

 ところで、かれが身辺の事物にモティーフをえたメタファとして の抽象作品(この時期からかれはピンク系の赤、青を多用している)から、筆のストロークによる不定形な色帯を明確な方法にした作品 へとふみだしたのが87年、意味をおびた形象をはなれ、意味なき視像の産出へと思いきり転進したのは88年の一連の仕事においてであ る。
  そのときの、たとえば「BACK HAND RAINBOW 2」など から「distance」出品作品への進展はみごたえあるものであった。あとのほうの作品で、かれは補色ともいえる色彩対比をもちいながら、それをしなやかなストロークの集束のあいだの緊密な関連に対応させるとともに、そこに色相間の明度差による奥行きをからめて現像の集積をいっそう複雑に組織した。画面の中央部に赤いストロークの大きめな集束をおき、あたかもそれらに視点をひきよせるかのよ うにまわりには画面の縁までほかの色のストローク群をめぐらせる と、それぞれの集束が筆の動勢をつたえ息づいている。作品をみて いると、この十分に有機的な視像拡散がそのまま、画面にむかうか れ自身の意識の集中と、のびのびした身体の動きであるような愉悦が感じられるほどだ。これを抽象表現主義亜流風などとする貶下は あたっていない。
この場合はあるいは、画面とのかかわりがむかっ てゆく、ある種のみずみずしい生活感覚など隠れたメタ・レヴェル が作用した僥倖のたまものではなかっただろうか。  
  それでけっきょくかれは、のびのあるストロークだけの集積と色相別のそれとを合わせる方法をとることになった。91年の「RAIN− BOW WALK」シリーズである。おそらくここでかれは、手の動き に限定された筆扱いという手法を基軸にすえて油彩の層を重ねるこ とを確認し、“画面の問題”追究への意志をあきらかにした。そして こうした画面の自己参照は94年までのあいだに、ストロークの色層 に白のそれを積極的に介入させて彩色をおおい、さらにまた彩色をおくという屈折を重ねるにいたった。ピンク系から青の主調色の筆跡が画面を平滑におおうその上を白で掃くと、そこにいくぱくかの淡い抑揚が生じる。結果として画面ぜんたいが、ほぼ均質な色層と しての一体性をえたといえるだろう。かれの仕事としてはあたらし い境位を示したものである。  

 ひるがえってみれば、かれは70年代から白を常用してきた。しかし白えのぐはそれじたいの物質性をさしだすようにするのでないかぎり、透層にもちいるとしてもほかの色に彩度をおとすよう作用するばかりである。
  加えて、一般的に画面の問題への限定という、画面の自己参照の反復には原理上それじたいをささえる能動性は欠落していた。くりかえすけれどそれが可能なのは、画面とのかかわりという虚性にもとづく統合の実践をあえて画面の問題におしとどめ、 それを徹底的に疎外しそのことに明確な構造をあたえ反復する意志 においてである。
  かれはなお、この道にふみとどまろうとしているのだろうか。それとも、思いもよらぬ画面の外部へ画面とのかかわりを開こうとしているのだろうか、かれのこんどの作品のくぐもり は、そうしたことを思わせずにはいない。

駒林修  KOMABAYASHl Osamu

1951新潟市生まれ
1973武蔵野美術大学造形学科油絵専攻卒

【個展】
1981 フタバ画廊(銀座)
1983 ギャラリー檜(銀座)
1985 ギャラリー檜(銀座)
1986 ギャラリー檜(銀座)
    アトリエ我廊 片桐ギャラリー(新潟)
1987 ギャラリー檜(銀座)
1988 ギャラリー檜(銀座)
1989 かわさきIBM市民文化ギャラリー(川崎)
1991 ギャラリー檜(銀座)
1992 村松画廊(銀座)
1993 CTI window GALLERY(神田)
   ギャラリーFL00R 2(経堂)
1994 村松画廊(銀座)

【グループ展】
1976 3人展 タナベ画廊(中野)
1986 Drawing Show ギャラリー檜(銀座)
1987 生活の場の現代美術展 グリーンロード(蒲田)
   2人展 新宿文化センター展示室
1988 distance2人展 ギャラリー檜
1989 ヘルペスの信号(青)ギャラリー檜   町田市立国際版画美術館
    動く現在 世田谷美術館
1991 ヘルペスの信号(黄)ぎゃらりい宏地(神田)

ギャラリー檜 Gallery Hinoki
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