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| 小島敏男展 |
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| 会場/ギャラリー檜 | ||||||
| 会期/2000年2月7日(月)-2月19日(土) | ||||||
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日曜休廊 |
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「喪失」の向こうで 木の枝から出て重なる薄い葉の一枚一枚が、石膏のフロックからその塊を残し、 ささえられるように表層に彫り出されている。
ロダンの大理石の彫刻「物思い」や「ダイナード」を思い浮かべる。ロダンの 作品「物思い」は、若い女の頭部が顎から後頭部にかけて、彫り残された大理石
の塊に埋めるように彫り出されている。 ギリシャ神話に現れるダイナードは、罰を受け底の無い桶で水を汲みつづけ、 遂には倒れ込んでしまう。ロダンは彫り残された大理石の上に、その塊に呑み込 まれるように顔を伏せ、体を横たえ、髪をその大理石の塊に解け込ませるように ダイナードの姿を彫り出している。彫り残された大理石の塊は、その上に体を横 たえるダイナードの不安や焦燥、そして罰を受けた肉体の不在を暗示している。 小島の彫刻は、ロダンのそれとかたちの上での類似性はあるが、かなりの距離 =差異のあるものに見える。彼の作品が対象にしているのは、木の先端から切 り落とされた技とそこに付いている数葉の木の葉である。それは人間の肉体の様 に、その内側に刻々と移り変わる心の動きを持ちながら、なお強固な存在、ある いは歴史の中で常に造形的な営為の対象として捉えられてきた肉体一存在一塊と は異なるものである。私達にとって木の葉は確かに物理的なマッス(塊)を持っ た存在ではあるが、同時に一枚の紙のように薄く、視覚的には、その表層性に於 いて知覚し対象化しているともいえる。そうした対象である木の葉が石膏の塊から、その表層へと彫り出される時、ロダンの「物思う」や「ダイナード」の様な隠喩を見出す事はない。 そこには葉の一枚一枚の重なりが示す距離や、それを推し測ろうとする作者の眼差しが在る。 小島はミケランジェロの未完の作品に対する関心について「対象のモデルを作 り、星取りをし彫り出すのではなく、一定の方向から見て、手前から奥へとその
距離を測り、直接大理石のブロックから掘り出す方法に注目する」と言及してい る。ミケランジェロの未完の作品「奴隷」は、未完であるが故に彼の制作のプロセスを良く示している。奴隷の折り曲げられた右足の下にある鑿跡も顕わな左足
は、やがて彫り出されるだろう左足の大理石の塊の中での位置と人体の表層との 関係を示してはいるが、ロダンの様に、それ以外のものを隠喩しているとは見え
ない。 小島の彫刻から見えてくるものは、作者と対象との間にある距離を推し測ろうとする彼の眼差しの在り様だろう。それはこの展覧会を構成する彼の作品。の三つの形式からも伺える。 写真の作品では、そうした眼差しの在り様はさらに鮮明にされているとも言える。写真という形式を用いて自らの作品を対象化する時、彼の言葉によれば「作 品をこう見たい、あるいはこう見て欲しい」という眼差しが向けられている。も ちろん、そこには写真というメカニズムが持つ記録性と、光と陰、アングル、そ してプリント上の操作といった造形性の問題が内在している。彼はもっともふさ わしい対象との関係を設定し、カメラのアングルを決定するのだろう。そして写 し撮られた作品はプリントの段階で、初めに通常のポジ像が印画紙に定着される。 さらにそのホジ像の印画紙をネガフィルムに見たてて、再度密着プリントでもう 一枚の印画紙に転写される。こうして生まれた像は、光は陰に、陰は光に反転し、 フィルムとは違って厚い印画紙を通して焼き付けられた像は、最初のボジプリン トとは異なり、対象の形体のエッジはうすれ、やわらかな光に包まれて現れる。 ここでも対象は二重に間接化され一 よりふさわしい対象の状態一という彼の 眼差しの対象との距離、写真との距離を提示している。 小島の作品が、彫刻、ドローイング、写真という三つの異なる形式をとって表出され、一見複雑な操作を通して制作されるのは、単に表現の様式の差異化を図るためになされているのではなく、対象と自らの距離をどの様に推し測ろうかとする目論見の結果であろう。そして、この様な作業の凝縮された濃密な時間、対象との距離を推し測ろうとする彼の眼差しこそが、 「今」 という歴史の一点 へどの様に関与しようかという姿勢の現れでもあろう。
今、私達はおそらくは止める事の出来ない科学技術の進歩、コンピューターの パーソナル化、インターネット、携帯電話 etc といった情報化社会、デジタル 化社会の端末で、眼の前に現れるさまざまな事物も記号の断片としてしか見えない。時間意識は並列化され、のっぺらぼうな、ちょうどバラ撒かれたビー玉のよ うに、あちらの時、こちらの時へと時を消費して行く。遺伝子操作はクローン人 間の登場さえタイムテーブルに載せようとしている。臓器移植を前提とした脳死 判定も死を私達の手から遠いものとしてしまった。何のオリエンテーションも無 しに繰り出されてくる科学技術の進歩や情報は、私達にどこまでが「生」で、どこからが「死」であるのかさえ定かには見えなくしている。 一人の人間の「生と死」という限られた時間のドキュメントすら消費の対象でし かなく、 「今」「ここ」でという感覚すら喪失する しかし、私達は今しばらくこうした中で生きなければならないのだろう。 小島は、おそちくこうした「今」「ここ」に在る者の一人として、自らの眼差し で眼前に現れる事物との距離を推し測り、凝縮された濃密な時間を通して喪失し た物や事をあがなおうとしているように思える。 稲 憲一郎
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