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| 北村周一展 |
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| 会場/ギャラリー檜 | ||||||
| 会期/1994年3月14日(月)-3月26日(土) | ||||||
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日曜休廊 |
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かたちが生まれるところは・・
平井亮一 ことがらを画面の内側へと収斂させる“内包的統合”の実践形式、 そこで画面の最低限の知覚現実に構造をあたえること。一見して、 ことがらを画面での表層的な反復へともってゆく“外延的統合”の 実践とみまがうけれども、時間と空間とあいわたって形成されるイ リュージョンの複合が、むしろ素朴なかたちへと収斂されてゆく。 あいまいにゆれる知覚の痕跡が決定不能のまま試行錯誤の網目をえ がいたとみえて、じつはそのおおざっぱなみかけがまさにポジティ ヴなかたちであるような統合。----北村周一の絵画のおおよそは、 目下こんなところであろうか。 そのことを布衍しよう。いまのべたようなかれの仕事それは、演鐸的 に平面の“形式問題”を参照するのではなく、時間・空間ぶく
みで画面に没入するかれのフィジカルな対応にもふれた知覚の現実 に、かれの統合実践の形式を映しだすことで帰納されたものである。
さて、実際にはかれはまずもって赤系の油彩で画布とのとっかか りをつくる。あらかじめドゥローイングやエスキスをこころみることはない。というのも、画布に筆をもってたちむかうことがすでに
してドゥローイングでもあるから。赤系のえのぐは純色のままであ ったり、多くは白をまぜたものであったりする。おそらく太い丸筆 平筆をもちい塗りかつえがくので、筆の走りがそのまま画面になってみえるとともに、白に近いほどに彩度の低い部分と純色のあざやかな部分とが塗る/えがくことのカオスを呈し、まだまだこの無明の閾域になにかが露呈する気配はない。が、それでも画面には視覚
的な動きがうまれ、かかわりができ、なにかが組織されそうな雰囲 気がたゆたいはじめる。 こういってしまうと、いかにもとどこおりなくことがすすめられ てゆくようになるけれど、実際にはかなりためらいの多い過程をたどったはずで、その首尾もけっしてはかばかしいものではなかっただろう。しかし見かたをかえるなら、このはかばかしくないのは、 試行錯誤の痕跡状態から特異な性質の形象をかれが画面で帰納して ゆくときの現像の複合が、かれの統合実践をたえず決定不能にしがちだからである。かれのさしだす画面がどこかぎこちなく、ちょっとみた眼にはおおざっぱなものに映っても、子細にみるにおよんで 思いもかけず複雑な因子をはらんでいると感ずるのはそのためである。
かれの表出はこうして、画面とのかかわりで、表面形式の自己参 照を実践するのではなく、画面からいえばその外部、おそらくは丸
山圭三郎がかつて「下意識」と「潜意識」との複合を「深意識」と 呼んだあの言語化されていない無明の欲望や記憶に、ほかならぬ当 の画面での統合実践の形式を映しだすような営為であるだろう。
さきにみたように、えのぐを重ねてゆく筆跡の方向があの褶曲する面を分け、それらが接するところは線状となり、さらに画布のおもてにそうように均質になった画面を、この線状のものが文字どおり奇妙なかたちで分節するのはしかし、分けるべき面を囲いこむ輪
郭としてではない。 そんなことからして、ほぼ10年まえの、かれの「深意識」がからんだ画面とのかかわり、この統合実践は、いまみてきたようにその 媒体形式の分節をポジティヴにひきよせ、これをおそらくまだ尾をひく「深意識」の上にようやく視覚化しそのかたちのほうをポジティ ヴに映したそうとしている。またそのことが、簡明ながら特異な画 面の創出につながるのは、褶曲する面と線状の閾とのあいだに、さまざまな知覚の現実をよびよせることによるのかもしれない。そのときいまのモノクローム調の傾向に変わりはないだろうか。 |
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