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| 木村林吉展 |
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| 会場/ギャラリー檜 | ||||||
| 会期/1993年7月12日(月)-7月24日(土) | ||||||
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日曜休廊 |
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「樹という空間」 一年ほどまえ、僕は木村林吉についてはじめて文章を書く機会をもった。かわさき IBM 市民文化ギャラリー での個展の図録の序文としてだった。 その個展、そしてそれから半年後の“ギャラリーなつか”での個展のときに、 彼はこれまでとはちがうタイプの作品を展示した。かなり大きな樹の幹を輪切りにしたものによるインスタレー ション作品である。
いま、この新しいタイプの作品をめぐって、二つの感想が僕にやってくる。ひとつは、この作品の形状をそのままことばにして、積みあげることと平らに展げること、というものだ。輪切りにした樹の幹を、垂直に積みあ げ、同時にかたわらで平らに展げているのである。そういえば、彼の作品には、もともと、この二つの要素が存 在していたのではないだろうか。 紙片や木片を積みあげた作品、物体であるとともに、積みあげた物体の側面がひとつの平面をつくりをしても いる。そういう作品を彼は実現してきた。積みあげるという要素、方法はそこにあきらかである。と同時に、僕
はおもうのだが、そこでは、積みあげたものが立体作品にはならなかった点に注意すべきである。 これにたいして、新しいタイプの作品では、物体としての樹が物体として積みあげられ、物体として床に平ら に展げられている。“ギャラリーなつか”で積みあげた作品では、丸い幹の一部分が、上から下まで平らに削られて 平面状を呈しており、積みあげることが平らに展げることでもあるという、以前の名残りがみられはする。しか し全体としては、まぎれもない立体作品をのである。その意味で、ここで木村は木(樹)という素材、彼がずっ とこだわりつづけてきた素材の物質性を、とにかく全面的に開いてみようとしている。 もうひとつの感想は、しかしこれは素材をして素材そのものを語らしめるというのとはちがうのではないか、 というものである。つまり、素材主義や物質主義の立体作品ではないだろう、ということだ。ほぼ生まのままの 素材、輪切りにした樹を、積みあげ平らに展げるという、きわめて単純を構成の作品なのだが、僕には、素材を ただそこに放り出しているとはおもえないし、素材がもともともっている力だけに頼っているものともおもえな い。樹という素材の物質性の開放をいし解放に手を貸していることは、さっきも言ったようにたしかだろう。だが、そのことと、樹という素材に全面降伏することとは、ちがうことである。もちろん、一般論としては、この ふたつを区別することはしばしばむずかしいだろうが、木村の作品の狙いが素材主義やもの主義にないことは、 はっきりしていると、僕にはおもえる。では、これはどういう作品なのか。
のびちじみするアコーデオンのように、樹を輪切りにしたものは、くっつければ元の樹木の状態に近くなるし 離せば別のものになってゆく。ところで、ここで木村がやっていることは、輪切りにしたものを元の樹木から完全に引き離してしまって、つまりたんなる材料にしてしまって、まったく別のものをつくる、ということではない。このインスタレーションは、いわばまだアコーデオン、ひきのばされたアコーデオンの状態を失わないでい
る。そこで、この作品は、アコーデオンの伸張と収縮の両方の動きを同時にもつものとしてそこにある。元の樹 木の状態を連想させる求心性と、解体の遠心性と、ふたつのあい反する動勢がここには共存しているのだ。 一木の樹がそこに置かれれば、それは周囲の空間を含んで、そこにある。そのことは言うまでもないとして、 しかしここで僕が木村の作品に感ずるのは、一木の樹、一本の木材がその内側にはらんでいる空間、ということ
なのだ。 できあがった作品、そのインスタレーションが展示空間全体を変容させることは言うまでもないことと して、しかし僕は、とりあえず、一木の樹、一本の木材じたいの空間の、いわばアコーデオン的な変容に立会っ ている。そういう印象がつよい。 ここに一枚の紙があれば、そのこちら側とあちら側があり、そして、「あいだ」という、見えない空間がある。 千葉成夫 |
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