木村林吉profile 作品 テキスト(やつとのおつきあい)
          個展(2000年11月20〜11月25)
会場/ギャラリー檜
会期/1993年7月12日(月)-7月24日(土)

日曜休廊

 

「樹という空間」

 一年ほどまえ、僕は木村林吉についてはじめて文章を書く機会をもった。かわさき IBM 市民文化ギャラリー での個展の図録の序文としてだった。 その個展、そしてそれから半年後の“ギャラリーなつか”での個展のときに、 彼はこれまでとはちがうタイプの作品を展示した。かなり大きな樹の幹を輪切りにしたものによるインスタレー ション作品である。

木 アクリル ボンド 200×190×10cm


  川崎の個展では、まだおずおずとという感じで、輪切りにしたものをそのまま積みあげてい た。“ギャラリーなつか”では、積みあげたものと、床に将棋倒しのように寝かせて並べたものかとから、成ってい た。彼の作品史において、はじめての本格的な立体作品で、これは重要なことといっていい。

 いま、この新しいタイプの作品をめぐって、二つの感想が僕にやってくる。ひとつは、この作品の形状をそのままことばにして、積みあげることと平らに展げること、というものだ。輪切りにした樹の幹を、垂直に積みあ げ、同時にかたわらで平らに展げているのである。そういえば、彼の作品には、もともと、この二つの要素が存 在していたのではないだろうか。

 紙片や木片を積みあげた作品、物体であるとともに、積みあげた物体の側面がひとつの平面をつくりをしても いる。そういう作品を彼は実現してきた。積みあげるという要素、方法はそこにあきらかである。と同時に、僕 はおもうのだが、そこでは、積みあげたものが立体作品にはならなかった点に注意すべきである。
 ふつう、物体 を積みあげることは「立体」のひろがりをもたらす。物体じたいが三次元の立体だし、それを積みかさねれば、 当然、三次元のひろがりも大きくなる。
  だが、紙片や木片を積みかさねた彼の作品は、そうなっていない。結果 としてもたらされているのが「平面」だからである。
  そこでは物質は、いってみれば、平面的に積みあげられて いる。下から上へ、紙片や木片が積みかさねられるのだが、いわば壁に沿って、壁のように積みかさねられてい くので、壁面は立体ではないというのと同じ意味で、それは立体にはならない。これはしかし、見る角度を変え てみると、紙片や木片という物体を垂直方向に展げていたということでもある、といってよいのではないか。つ まりそこでは、積みあげることがそのまま平らに展げることでもあった、そういうことなのだ。

  これにたいして、新しいタイプの作品では、物体としての樹が物体として積みあげられ、物体として床に平ら に展げられている。“ギャラリーなつか”で積みあげた作品では、丸い幹の一部分が、上から下まで平らに削られて 平面状を呈しており、積みあげることが平らに展げることでもあるという、以前の名残りがみられはする。しか し全体としては、まぎれもない立体作品をのである。その意味で、ここで木村は木(樹)という素材、彼がずっ とこだわりつづけてきた素材の物質性を、とにかく全面的に開いてみようとしている。

   もうひとつの感想は、しかしこれは素材をして素材そのものを語らしめるというのとはちがうのではないか、 というものである。つまり、素材主義や物質主義の立体作品ではないだろう、ということだ。ほぼ生まのままの 素材、輪切りにした樹を、積みあげ平らに展げるという、きわめて単純を構成の作品なのだが、僕には、素材を ただそこに放り出しているとはおもえないし、素材がもともともっている力だけに頼っているものともおもえな い。樹という素材の物質性の開放をいし解放に手を貸していることは、さっきも言ったようにたしかだろう。だが、そのことと、樹という素材に全面降伏することとは、ちがうことである。もちろん、一般論としては、この ふたつを区別することはしばしばむずかしいだろうが、木村の作品の狙いが素材主義やもの主義にないことは、 はっきりしていると、僕にはおもえる。では、これはどういう作品なのか。

木 アクリル ボンド 直径95×高さ210cm

   のびちじみするアコーデオンのように、樹を輪切りにしたものは、くっつければ元の樹木の状態に近くなるし 離せば別のものになってゆく。ところで、ここで木村がやっていることは、輪切りにしたものを元の樹木から完全に引き離してしまって、つまりたんなる材料にしてしまって、まったく別のものをつくる、ということではない。このインスタレーションは、いわばまだアコーデオン、ひきのばされたアコーデオンの状態を失わないでい る。そこで、この作品は、アコーデオンの伸張と収縮の両方の動きを同時にもつものとしてそこにある。元の樹 木の状態を連想させる求心性と、解体の遠心性と、ふたつのあい反する動勢がここには共存しているのだ。
 とい うことは、ここで木村は、ちょうどアコーデオンを演奏するように、輪切りにした樹を自在に統御していること を意味している。どのくらい引き、どのくらい押すかは、彼の掌中にあるので、素材みずからが決めるのではな い。素材じたいがみずからを語っているのではないのである。そうして、アコーデオンを押したり引いたりする ことによって、つまり輪切りにした樹を積んだり展げたりすることによって彼が表に出そうとしている音色は、 樹というものが内にはらんでいる空間、ということになるだろう。

 一木の樹がそこに置かれれば、それは周囲の空間を含んで、そこにある。そのことは言うまでもないとして、 しかしここで僕が木村の作品に感ずるのは、一木の樹、一本の木材がその内側にはらんでいる空間、ということ なのだ。
 

 できあがった作品、そのインスタレーションが展示空間全体を変容させることは言うまでもないことと して、しかし僕は、とりあえず、一木の樹、一本の木材じたいの空間の、いわばアコーデオン的な変容に立会っ ている。そういう印象がつよい。

ここに一枚の紙があれば、そのこちら側とあちら側があり、そして、「あいだ」という、見えない空間がある。
そして、ここに一木の樹があっても、やはりそのようをことはあるのではをいか。一木の樹のこちら側とあちら 側のあいだにある空間一一それは、物理的には、樹そのもの以外ではない。だが、そのように物理的に片付けて しまってもなお消えない、なお残る、掛の空間、樹という空間 ………。木村林吉の作品は、そういう空間の ほうへと、僕の眼を向かせる。               

千葉成夫

ギャラリー檜 Gallery Hinoki
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