MORIOKA jun /
ICHIKAWA kazuhide

Exhibition

アノニマスなものの未視感
一森岡純の〈写真〉について

森岡純個展(2000〜2003)


市川和英

 

 

11:30a.m.〜7:00p.m
(最終日5:30p.m)

 

 

distance 21

「写真と彫刻の正しさ、あるいは無能」
Rightness or Inability of Sculpture and Photograph

森岡 純・市川和英 

2003.4.14-4.26  Gallery HINOKI

 写真家 森岡 純と、彫刻として形体を提示している 市川和英のコラボレーション
は、二年ほど前に「アートソーコ53」(八王子)のスペースにおいておこなわれている。  
 その時の意味は、森岡が写した市川の個展会場写真('98年川崎IBM市民ギャラリー)と森岡の風景写真、そして中央に市川の新作彫刻1点の計3点で構成され、写真の視線と彫刻の空間、あるいは両者の視線と空間が混在することで、視点と視線がどのように同化と違和感を抱え込むのかを見るということであった。  

おそらく、森岡 純の展示作品史上最上とも思えるその写真によるサイト・スペシフィックなインスタレーションは、今回のコラボレーションにおいてもキー・ヴィジュアル的な存在となるだろうが、一見客観的に装われた写真の視線と“描かれた写真”注1、認識領域としての彫刻の視線の両者とも、実はすべて主観の内にあるということはまず確認しておきたいところだ。
  スーザン・ソンタグが『写真論』において「写真が世界にかかわるものである(あるいはそうであるべきだが)かぎり、写真家はあまり価値がないが、それが大胆な主観性探究の道具であるかぎり、写真家はすべてなのである」と言わしめたその根拠は、実は写真の美的評価の曖昧さにもとづいていた。

いまもって引きずっているその写真の形式的所在の曖昧さは、それゆえに芸術としての高みからキッチュで通俗的な分野までをも飲み込み得る媒質といえるのであって、そこに写真の特権的なズル賢さがある。  
  その曖昧な媒質の特性に一旦拘束をかけ(それは、情報であるのか画像空間としてあるのか、その両者に越境し得るアイディアであったが、直前に森岡が拒否)、“写真を描く”写真家(森岡)の視線を明らかにしつつ、実在形体としての彫刻空間を形成する市川の視線が交錯することで、第三の視線が得られるのではないか。そして写真の眼差しは、その印画紙に全てが写っており、全てが写っていないという物理的トリックの産物としてあるがために、、視線を判断停止の状態へ移行するためには格好のメディアなのである。美術の質的低落を誘発する予定調和的な眼差しでなく、あらたな知覚を伴った眼差しへの契機となればと思う。

文:市川

 <タイトルは以下から拝借した>  

「近代の芸術の形式はすべて現実に対してある特権的な関係を要求するが、その要求はとりわけ写真の場合に正当化されているように見える。ところが写真は結局絵画同様、現実へのどんな直載の関係についても湧くところの、近代のもっとも特徴的な疑惑―観察した世界を当然と受け取れることの無能性―を免れることはできなかったので
ある。」

スーザン・ソンタグ『写真論』(近藤耕人訳 晶文社)P125  

(アンソニー・カロの作品論を述べつつ)「これまでの考察を踏まえながらも、一歩踏み込むかたちで、最後に一言。《テーブル作品第三番》が芸術であるとの確信は、徹底的分析に抗うような何ものか、たとえばそのメタリックな光輝を発する灰緑色が他のすべての要素にたいして有する適切さまでも含めた、作品のなかで作動しているすべての関係の全き正しさ(ライトネス)に、もとづいている。批評家がまず責任を負うべきは、その種の正しさにたいする直観なのであって、またその直観ゆえに批評家は直接に報われるのである。」  

マイケル・フリード『モダニズムはいかに作動するのか―T・Jクラークへの反論』
(上田高弘 訳 批評空間1995)

注1 「写真家が述べるように、写真の撮影は客観的世界を私物化する無限の技術であると同時に、単一自我の
   避けがたく唯我論的表現でもある。カメラは既存の現場を暴くだけだが、写真はそれを描く」
                                    スーザン・ソンタグ(同上)


「絵画と敵対する彫刻について」注1 のメモ

 彫刻は実在物としてのみあるかぎり“見える”ということで観者は安心する。これに対して写真は、見えているものが写っているという前提によって成り立っている。つまり、逆にいえば写真家が見ていないもの、写せないものを写真のなかで見ようとする者は多くはいないだろう。ましてや、絵画において描かれていないものがあっても不安に思う者はいない。
 

 実在空間を瞬間的かつ直観的に点や線に還元して把握することはない。自分で試しながら歩行しても、どちらかといえば風景を面的な塊としてとらえているような気がする。  そのような感覚から、絵画としての直観的置き換えは“(色)面”が基本であり、
“線”は意識的な還元の表象としてあるだろう。  
  ミニマリズムの彫刻が絵画との敵対を戦略的に取り込みつつ、物質と形態(ゲシュタルト)による自立的彫刻の可能性を提出したように、その対立軸は絵画特有の色彩的イリュージョンとともに、非量塊化を必然とする意識としての還元という、抽象に特有なプロセスをも含んでいたように思われる。  
  物質であるという実在と形態とのあいだには(純粋)視覚から意識へといったような、時間的ズレがある。このズレは抽象彫刻を理解するうえで、あるいは抽象絵画を理解することにおいて、観者に対してある種制作者の立場を要請するようなものとしてある。  
 

つまり、観者は安定的に意味付けられた実在空間とは分離された予定調和されない“物体”と“形態”とそれらの“空間”を眼差すことになるからだ。  
  時間のズレを含むということはすでに意識下の生産システムにもとづいていることを差し示す。この制作と観者の共犯関係に含まれる批評の居心地の悪さこそがマイケル・フリードによって「シアトリカル」として指弾されたものである。  
  物質ではあるが空間でもあり、なおかつ形態であるというミニマリズムの主張は観者の再編成の上に成り立っており、その徹底化は以前のアヴァンギャルドと同じように持続不能であった。  
 

ミニマリズム以後の新たな彫刻が可能であるならば、非量塊に至る還元的プロセスをふまえた形態(体)としてあるだろう。それは物質、実在、現前ということにおいて絵画的イリュージョンとは「敵対」するのであって、それ以上でもなく、彫刻において絵画との「敵対」はむしろ作法、手順なのである。 



注1 「彫刻の関心はいつのまにか、絵画の関心とは別であるばかりか敵対するものになってきたということが
    いえるだろう」
    ロバート・モリス『彫刻についてのノート―感覚の視覚化』山口勝弘訳「美術手帖」1969,3参照
                                    

2003.4  市川和英


 市川和英との二人展はこれで二度目になる、前回は彼の立体と私の壁一面の写真だった。
今回、私は全紙の写真、六点を展示する予定です、この作品は女性の足で始まり、終わるように作った。足を撮った時は、かなり酔っていて撮りながら風景が色々と見えていた。この風景はかなり具体的なもので、自分の中にストックされている物をコマ割、しながら足を見ていた様に思う。飲み屋の灯りの下では酔いもてつだって、物はボーと見え、様々な風景が頭の中に浮かんでくる。

 子供の頃、自転車に乗った人がトラックに轢かれるのを市電の中から見たことがある、正確に言えば、トラックの陰に人がチラッと見えただけである。しかし見えている事柄はトヲックに倒れこんでゆく人と自転車であった。確かに人が、トラックに吸い込まれてゆくように私こは見えていた。路肩を走っていたトラックが自転車と重なった時、自転車がわずかに傾いた、見たのはそれだけである。そして誰かが声を上げたとき、隣にいた母が私に見ないようにと言った。その後のことは、想像である。大阪の夏は暑く、道路のアスファルトは溶け車の轍を作っていた、自転車はそんなところを走っていたのだろう。

  ベトナム戦争が終わって、写真の役目は終わったと思っている。しかし表現として成立しているかと言うと疑問である。一枚の写真が出来る事、市川の考えたタイトルの無能という言葉に写真を感じる。彼の言う正しさ、あるいは無能と言うことを、私が正しく理解しているかは別にして。

03 4.12 純

ギャラリー檜 地図(Gallery Hinoki MAP)

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