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distance 21 「写真と彫刻の正しさ、あるいは無能」 森岡 純・市川和英 2003.4.14-4.26 Gallery HINOKI 写真家 森岡 純と、彫刻として形体を提示している 市川和英のコラボレーション おそらく、森岡 純の展示作品史上最上とも思えるその写真によるサイト・スペシフィックなインスタレーションは、今回のコラボレーションにおいてもキー・ヴィジュアル的な存在となるだろうが、一見客観的に装われた写真の視線と“描かれた写真”注1、認識領域としての彫刻の視線の両者とも、実はすべて主観の内にあるということはまず確認しておきたいところだ。
いまもって引きずっているその写真の形式的所在の曖昧さは、それゆえに芸術としての高みからキッチュで通俗的な分野までをも飲み込み得る媒質といえるのであって、そこに写真の特権的なズル賢さがある。
文:市川 <タイトルは以下から拝借した> 「近代の芸術の形式はすべて現実に対してある特権的な関係を要求するが、その要求はとりわけ写真の場合に正当化されているように見える。ところが写真は結局絵画同様、現実へのどんな直載の関係についても湧くところの、近代のもっとも特徴的な疑惑―観察した世界を当然と受け取れることの無能性―を免れることはできなかったので スーザン・ソンタグ『写真論』(近藤耕人訳 晶文社)P125 (アンソニー・カロの作品論を述べつつ)「これまでの考察を踏まえながらも、一歩踏み込むかたちで、最後に一言。《テーブル作品第三番》が芸術であるとの確信は、徹底的分析に抗うような何ものか、たとえばそのメタリックな光輝を発する灰緑色が他のすべての要素にたいして有する適切さまでも含めた、作品のなかで作動しているすべての関係の全き正しさ(ライトネス)に、もとづいている。批評家がまず責任を負うべきは、その種の正しさにたいする直観なのであって、またその直観ゆえに批評家は直接に報われるのである。」 マイケル・フリード『モダニズムはいかに作動するのか―T・Jクラークへの反論』 注1 「写真家が述べるように、写真の撮影は客観的世界を私物化する無限の技術であると同時に、単一自我の 彫刻は実在物としてのみあるかぎり“見える”ということで観者は安心する。これに対して写真は、見えているものが写っているという前提によって成り立っている。つまり、逆にいえば写真家が見ていないもの、写せないものを写真のなかで見ようとする者は多くはいないだろう。ましてや、絵画において描かれていないものがあっても不安に思う者はいない。
実在空間を瞬間的かつ直観的に点や線に還元して把握することはない。自分で試しながら歩行しても、どちらかといえば風景を面的な塊としてとらえているような気がする。
そのような感覚から、絵画としての直観的置き換えは“(色)面”が基本であり、
つまり、観者は安定的に意味付けられた実在空間とは分離された予定調和されない“物体”と“形態”とそれらの“空間”を眼差すことになるからだ。
ミニマリズム以後の新たな彫刻が可能であるならば、非量塊に至る還元的プロセスをふまえた形態(体)としてあるだろう。それは物質、実在、現前ということにおいて絵画的イリュージョンとは「敵対」するのであって、それ以上でもなく、彫刻において絵画との「敵対」はむしろ作法、手順なのである。
2003.4 市川和英 市川和英との二人展はこれで二度目になる、前回は彼の立体と私の壁一面の写真だった。 子供の頃、自転車に乗った人がトラックに轢かれるのを市電の中から見たことがある、正確に言えば、トラックの陰に人がチラッと見えただけである。しかし見えている事柄はトヲックに倒れこんでゆく人と自転車であった。確かに人が、トラックに吸い込まれてゆくように私こは見えていた。路肩を走っていたトラックが自転車と重なった時、自転車がわずかに傾いた、見たのはそれだけである。そして誰かが声を上げたとき、隣にいた母が私に見ないようにと言った。その後のことは、想像である。大阪の夏は暑く、道路のアスファルトは溶け車の轍を作っていた、自転車はそんなところを走っていたのだろう。 ベトナム戦争が終わって、写真の役目は終わったと思っている。しかし表現として成立しているかと言うと疑問である。一枚の写真が出来る事、市川の考えたタイトルの無能という言葉に写真を感じる。彼の言う正しさ、あるいは無能と言うことを、私が正しく理解しているかは別にして。 03 4.12 純 |
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